ひふみ神示 分類別一覧 - 神人 -

第02巻 下つ巻 第05帖 (047)
「江戸に神と人との集まる宮建てよ、建てると申しても家は型でよいぞ、仮のものざから人の住んでゐる家でよいぞ。 の石まつりて、神人祭りて呉れよ。」
ここで説明していることは、諸都市の各家のPCで@の情報を扱ったホームページを閲覧しなさい。というような内容に読めます。神人はいわゆる神がかった人だと思いますが、ここでは諸世紀の太陽、ひふみ曰くの地のミロクを指すものかと思います。@の石というものが何なのか思いますが、石に意志等をかけているのだとすれば、@=ひふみの大神の意志、意図などを理解していろんな情報をひふみ曰くサニワしながら情勢などを読みながら、神人=諸世紀曰くの太陽、ひふみ曰くの地のミロクを祭りなさいとも取れました。


第06巻 日月の巻 第24帖 (197)
「自分なくならねばならぬのざぞ。神人一つになるのざぞ。」
神人の行き着く先の状態が自分がなくなり、神と人とが同じ方向へ一致するような感じなのかなと思います。

この帖で興味深いのは、
「夜明けたら生命(いのち)神に頂いたと申してあろがな。太陽(ひ)あるうちはことごとに太陽の御用せよ。月あるうちはことごとに月の神の御用せよ。それがまことの臣民ぞ。」
それとなく太陽の御用として太陽に触れている点かなって思います。


第08巻 磐戸の巻 第01帖 (237)
「イワトひらくには神人共にゑらぎにぎはふのざぞ、カミカカリして唱ひ舞ふのざぞ、ウズメノミコトいるのざぞ。ウズメとは女(おみな)のみでないぞ、男(おのこ)もウズメざぞ、女のタマは男、男のタマは女と申してあろがな。」
岩戸開きの時節では、神と人がえらく賑わうようです。最近よく出てくることが多い予言者なども神人の範疇に入るのかな?そうでもない人もいるようですが。相当、上から見ているとその様子は賑わっている様に見えるようです。


第09巻 キの巻 第11帖 (268)
「一二三(ひふみ)とは限りなき神の弥栄であるぞ、一(ひ)は始めなき始であるぞ、ケは終りなき終りであるぞ、神の能(はたらき)が一二三であるぞ、始なく終なく弥栄の中今(なかいま)ぞ。一二三は神の息吹であるぞ、一二三唱えよ、神人共に一二三唱へて岩戸開けるのざぞ」
神と人の共同作業が岩戸開きという印象です。虚構が通じなくなった際に、一切の詭弁が通じなくなるようなものも神の息吹のようなものかなとも思います。
ここ5年くらいの一二三の内容が普段の生活の中で使われた候補のものとしては、2002年ごろのヤフーの掲示板論争のMFさんの内容がそのようなもののように思います。


第09巻 キの巻 第15帖 (272)
「元津神々人の世ひらき和し、悉くの神人みつ道、勇み出で、総てはひふみひふみとなり、和し勇む大道。」
元津神々が人の世を開き和すようですが、その世では神人がその道には満ちているようです。そのためには改心、身魂の洗濯などをし、国のめぐりも含めてわびなければいけないようです。
大和朝廷が出来る以前も含めて現代まで人類が絶えることなく今存在しているということは、良い悪いに限らず時の権力者の意向に沿ってやって来たことがたくさんあるかと思います。現代に生きる我々はその起こして来たことの果てに存在しているのかなとも推測します。それらは今めぐりとなって積もり積もって清算する時節を迎えようとしているので、今のうちに借銭なしになるようにしなさいと云っているようです。


第09巻 キの巻 第16帖 (273)
「弥栄の代の神、人、神人わけへだてなく光り輝き、道は更に極みの極みに進み動き、ありとあることごとくの成り結び、更に新しく更に極むるの大道、神代歓喜の代々。三月二十日、ひつ九の神。」
永久に繁栄する世の中になると、神と人は分け隔て無くなるようです。


第11巻 松の巻 第23帖 (314)
「国々所々に、神人鳴り動く、道は世にひらき極む、日月地 更に交わり結び、その神々ひらき弥栄え、大地固成、まことの神と現はれ、正し、三神は世に出づ、ひふみと鳴り成るぞ。」
その時節では、国々に神がかりの人が動くようです。


第12巻 夜明けの巻 第01帖 (321)
「神人ともにと申してあろが。神は人に依り神となり、人は神によって人となるのざぞ。まことの神のおん心わかりたか。」
神人とは神と人が依らなければなり得ないようです。


第12巻 夜明けの巻 第05帖 (325)
「石物云ふ時来たぞ。山にも野にも川にも神まつれと申してあること、忘れるでないぞ、型せと申してあらうが、いづれも仮ざから三千世界の大洗濯ざから、早よ型してくれよ。型結構ぞ。何もかも神人共にするのざぞ。」
型は神と人とで作るように読めます。石が物を云う時節に山や野、川などに神を祀ってどのように型をするのか?何か自然と共生出来るようなことを来る時節に向けて準備しなさいとも読めます。
文明を離れたスーパーやコンビ二、避難物資の補給のない避難生活は人類にとっては俗世の生活習慣の垢を落とす機会でもあるように思います。岩戸開きの開始は石が物を云うときのようです。今まで隠れてた方々が言うのでそれは注意深く見ていると目立つのでしょうね。


第13巻 雨の巻 第01帖 (335)
「惟神(かんながら)の道とか神道とか日本の道とか今の臣民申してゐるが、それが一等の間違ひざぞと申してあろが、惟神(かんながら)とは神人共に融け合った姿ざぞ。」
神の意図と人の意図が一致したときに神がかりというようなことやここで云う惟神というものになるのかなと思います。ひふみで説明しているような神の世界の実情などを理解しないことには、役には立たないと云っているように受け取れます。


第13巻 雨の巻 第06帖 (340)
「一二三四五六七八九十百千卍(ひとふたみよいつむゆななやここのたりももちよろず)授け申して神人となるぞ。」
神示の内容をよく肚に入れることで胴が座り、素直になっているならば、ひふみの全てを授かり神人となるようです。


第13巻 雨の巻 第15帖 (349)
「是迄の考へ方やり方致すなら建替ではないぞ、何も彼も上中下すっかりと建替へるのざぞ、外国は竜宮の音秘(オトヒメ)様ぐれんと引繰り返しなさるのざぞ、竜宮の音秘(オトヒメ)様、雨の神様の御活動 激しきぞ。今度 次の大層が出て来たら愈々ざぞ。最後の十十 (トドメ)(透答命)ざぞ、今度こそ猶予ならんのざぞ、キリキリであるから用意なされよ、三四月気付けよ、キきれるぞ。信心なき者ドシドシ取り替へるぞ、此の中、誠一つに清め下されよ、天明まだまだざぞ、世の元の型まだまだざぞ、神の仕組 成就せんぞ、神人共にと申してあろがな、神厳しきぞ、ぬらりくらりぬるくって厳しきぞ、と申してあろがな。役員多くなくても心揃へて胴(十)すへて居りて下されよ、神がするのであるから此の世に足場作りて居りて下されよ」
世の元の型を神人として出さないといけないようです。ということは、少なくとも予言的にはひふみの全てを習得するか理解する人がソラで読めるなどの時節が来ないといけないようですが、その前に、信心なき者をドシドシ取り替える時節もあるようです。
サイトで起こった袂別れなども将来どのような結末を待つのかは経過を見たいと思いますが、何かしらの意味を含むのかなとも思います。それが三月四月の頃に袂別れの前兆があったかと云えば振り返ればあったかなとも思います。3月から4月に移行する時期に解読の全体としての三巡目は始まりましたし、そのやり取りが最終的には袂別れのきっかけにもなっていたように思います。これは極めて近視眼的なところを含むと思いますが、ここでは役員についても触れてますので一応検証材料として記載しておきます。三月四月の記載は他にもあったと思いますので、アラカルトに記載の語句が終了すれば三月四月の内容を抽出してもう少し大きい視点で見れたらと思います。


第14巻 風の巻 第07帖 (358)
「神にすがり居りたればこそぢゃと云ふとき、眼の前に来てゐるぞ。まだ疑うてゐる臣民人民 気の毒ぢゃ、我恨むより方法ないぞ。神の致すこと、人民の致すこと、神人共に致すこと、それぞれに間違ひない様に心配(くば)りなされよ。」
人民の中にもミロクの存在を認めていて、動く方々もいるように読めます。人民にも神の致すことに協力する方々もいるようですが、疑って躊躇している方々もいるようです。神と人が共に致すということはなかなか難しいことでもあるようです。


第15巻 岩の巻 第10帖 (375)
「わからんミタマも今迄は機嫌取って引張りて来たなれど、もう機嫌取りは御免ぢゃ。こんなことに長う掛かりてゐたなら実地が遅れるから、ひときりにいたすぞ。神代となれば天は近くなるぞ、神人共にと申してあらうがな。一人となりても、神の申す事ならば、ついて来る者が誠の者ざぞ、誠の者少しでも今度の仕組は成就するのざぞ、人は沢山には要らんのざぞ。」
これは、何やらサイトでの袂別れの一件も関係あったことのようにも思います。それは一つの小さな事例の一つとしてだと思いますが、地球儀レベルで見た際でも同じようなことが起こっていると推測します。ひときりにいたすぞの部分は解読の現状にも当てはまるようにも思ったりします。神人はなれる可能性はたくさんの方が持つようですが、その数は少なくてもここで云う今度の仕組みは成就するようです。


第17巻 地震の巻 第02帖 (379)
紹介だけとさせてもらいます。


第18巻 光の巻 第01帖 (397)
「光の巻しるすぞ、地(くに)の日月の神とは臣民の事であるぞ、臣民と申しても今の様な臣民ではないぞ、神人共に弥栄の臣民の事ぞ」
ここで云う臣民とは、神と人と共に永久に繁栄して行く臣民の事のようです。この降りた日は、MFさんの誕生日の前日ですね。ひふみの云うミロクがそうであるのなら、とっても暗示的な内容のようにも思います。


第21巻 空の巻 第02帖 (457)
「ひふみゆらゆらと一回二回三回となへまつれよ、蘇(よみがえへ)るぞ。次に人は道真中にしてワとなり、皆の者 集まりてお互に拝み、中心にまつりまつり結構ぞ、節分からでよいぞ。このお道の導きの親 尊べよ、どんな事あっても上に立てねばならんぞ、順乱しては神の働きないと申してあろがな。直会(なほらい)には神の座 上につくらなならんのざぞ、神人共にと申してあろがな、末だ判らんのか、順正しく礼儀正しく神にも人にも仕へまつれよ。たばねの神は、束(たばね)の人は後からぢゃ、後から出るぞ。一月一日、一二 。」
ひふみゆらゆらと唱えてミロクを蘇らすことと、神と人が共に行うことは何か関係があるように思う記述です。


第22巻 青葉の巻 第01帖 (470)
「役員七つに分けよ、大道師、権大道師、中道師、権中道師、小道師、権小道師、参道の七段階ぞ、中道師から上は神人共ざぞ。」
この辺りは実際どうなんでしょうね。いろいろ語句ごとに読ませてもらってますが、こんなことを書いてあるのはごくわずかですし、不自然さを感じますので、紹介だけにしておきます。


第22巻 青葉の巻 第03帖 (472)
「天地(てんち)不二、神人合一。天(あめ)は地(つち)なり、地(つち)は天(あめ)なり、不二(ふじ)なり、アメツチなり、神は人なり、人は神なり、一体なり、神人なり。神、幽、現、を通じ、過、現、末、を一貫して神と人との大和合、霊界と現界との大和合をなし、現、幽、神、一体大和楽の光の国実現を以って教旨とせよ。」
ひかり教の教旨のようです。


第22巻 青葉の巻 第10帖 (479)
「仕組変り変りて人民には判らんなり、よき世と致すのぢゃ、いくら智あっても人間心では出来ん仕組ぞ、智捨てて神にすがりて来ねば分らん仕組ぢゃ、と云ふて人間世界は人間の智いるのぢゃ、智でない智を神が与へるぞ、神人共にと申してあろがな、つとめ上げたら他にない結構な御用。」
人民の方がたはミロクの出す情報を検証している可能性はありそうですが、人間だけでは解明は難しいようです。勤め上げることは他にない大変に良い御用になるようです。


第23巻 海の巻 第04帖 (496)
「神示よく読んで苦を楽とせよ、楽は喜びぞ、苦のハタラキが楽ぞ、楽は喜びぞ、光ぞ、神人共のまつりぞ、楽で岩戸開けるぞ、苦しんで開く岩戸は誠の岩戸でないぞ。」
苦を楽に転換して出来ることをやって行く過程で、それがひふみの云う誠の光を浴びているものならば神も依ってくれて楽に岩戸は開くのかなと思ったりです。


第23巻 海の巻 第16帖 (508)
「役員には神示の肚に入った者がなるのざぞ、役員の御魂は沢山あれど、神示読まねば役員にはなれないのざぞ、なればスコタンばかり、長らく世に落ちて居た神人神々様を世にお上げせねば世はよくならんのざぞ、軽く見るから神示分らんのぢゃ、人も軽く見てはならんぞ。」
役員は、神人や神々様を世にお上げするということをしなければならないようです。広報の役割としたら当然のことかなとも思います。


第24巻 黄金の巻 第11帖 (522)
「今度の【イワト】びらき、神と人との九十運動ぞ。建替の守護が大切ぞ。」
岩戸開きは神と人との作業ということのようです。神がかりして守護をつけないことには乗り越えることは困難のようです。


第24巻 黄金の巻 第93帖 (604)
「そなたが神つかめば、神はそなたを抱くぞ。神に抱かれたそなたは、平面から立体のそなたになるぞ。そなたが有限から無限になるぞ。神人となるのぢゃ。」
神人になるということは、月光の巻にあるように神という婿に嫁入りして結婚を果たしたようなもののようです。神は婿のように外に出て仕事をし、臣民である嫁はその肉体である家を婿の気持ちを汲みながら守るというような感じの印象です。


第25巻 白銀の巻 第06帖 (617)
「元の元の から 、 の中界を経て、ウの現界に到る悉くの世界が皆人間に関係あるのであるから、肉体はウであるが、魂は に通じてゐるのであるから、 はヨロコビであるから、喜びが人間の本体であるから、神界と云ひ、現界と云ひ、一本の国であるから、人間からすれば、人間が土台であるから、神の礎であるから、神しづまれば神人となるのであるから、神界、中界、現界つらぬきて居らねば、マコトの和合して居らねば、マコトの喜びでないから、マコトの喜びが大神であるから、大神の働きは人間によるものであるから、心せねばならんぞ。」
人間が土台でそこに神が鎮まれば神人になるようです。神がかりと判らないのは本当の神がかりのようで、ひふみの求めている神がかりの質の設定が示されているようです。


第26巻 黒鉄の巻 第23帖 (641)
「神となれば、神人となれば何事も心のまま。神とは神、大神とは 一十(カミヒト)のこと。」
大神の意図に沿うような行動が出来れば、それは神人と云えるのかなと思います。


第27巻 春の巻 第06帖 (663)
「神はこの世に足をつけ衣とし、人はあの世を として、心として生命しているのぢゃ。神人と申してあろうがな。この十理(ドーリ)よくわきまへよ。」
神人の構造のようにも思えます。


第27巻 春の巻 第42帖 (699)
「新しき霊界は神人(カミヒト)共でつくり出されるのざ。それは大いなる喜びであるからぞ。神のみ旨であるからぞ。新しき世はあけてゐるぞ。」
新しい霊界をつくる際には神人と共につくりだされるようで、そこには人を殺す外道の道によって殺されることのない人たちが亡くなった際に向かうところのようにも思います。


第27巻 春の巻 第43帖 (700)
「自分が体得し、自分から湧き出ねば自分のものでないぞ。つけ焼刃は危ない、危ない。気狂ひに刃物ぞ。平面的考え、平面生活から立体に入れと申してあろうがな。神人共にとけ合ふことぞ。」
普段の生活の中に新しい武器を使うためのヒントがあるようです。神の意図に沿うように生活が出来ていたなら、後ろの神はその人間が学習した内容をうまく使うことと思います。


第29巻 秋の巻 第18帖 (759)
「人民は神のへそとつながってゐるのであるぞ。へその緒さへつながって居ればよく、神人であるぞ。」
人民は現実界の母からつながるへその緒は断ち切っても、神のへそとはつながっているようです。現実界に存在する時点で神人なのだが、心の中を通すフィルターのようなものがうまく洗濯できていないとひふみの云う神人の機能を果たすことは難しいように読めます。


補巻 月光の巻 第07帖 (794)
「大奥山は神人交流の道の場である。道は口で説くものではない。行ずるものである。教は説かねばならない。多数決が悪多数決となるわけが何故に判らんのぢゃ。投票で代表を出すと殆んどが悪人か狂人であるぞ。世界が狂ひ、悪となり、人民も同様となっているから、その人民の多くが選べば選ぶ程、益々混乱してくるのであるぞ。」
2008年の大統領選挙に向けてアメリカでは予備選などが始まっているようですが、神の何か動きがあるとすれば、道を口で説かず、実際に行動に移して来た存在が大統領になる時節というのも検証できればと思います。


補巻 月光の巻 第16帖 (803)
「真直ぐに真上に神をいただくと申すことは、上ばかりではないぞ。真下にも横にも前後にも立体三六 度に真直ぐに神を頂かねばならんと云うことぞ。神人交流の第一歩。」
神と人が交流をする第一歩は立体の360度に真っ直ぐに神をいただかなくてはならないとのことです。


五十黙示録 第01巻 扶桑の巻 第05帖 (005)
「五十人の仁人が出て来るぞ、仁人とは神人(カミヒト)のこと、この仁人が救世主であるぞ、救世主は一人でないぞ。各々の民族に現はれて五十人であるなれど、五十と言ふ数に囚われるなよ、五十人で一人であるぞ、数に囚われると、判らんことになり、岩戸しめとなるから気つけおくぞ。」
各民族から、いろいろとミロクの分霊のような形で神人に当たるような人たちが出てくるようです。


五十黙示録 第01巻 扶桑の巻 第15帖 (015)
「人民は我(ガ)が強いから一番おくれてゐるのであるぞ、人民の中では宗教人が一等おくれてゐるぞ、神人(カミヒト)とならねば生きては行かれんのぢゃ」
岩戸開きの時節では、神人とならなければ生きては行けないようです。

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